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写真は、光で描くものだから。——「イツモノヒカリ」という名前に込めたこと

執筆者の写真: 夫 Utsushi/うつし
夫 Utsushi/うつし
9月8日
読了時間: 3分

Photographという言葉は、光を意味する「photo」と、書く・描くことにつながる「graph」からできています。


写真とは、文字通り考えれば「光で描くもの」です。


白いレースのカーテンに四角い光の面が当たって輝いている。明るく温かみのある爽やかな雰囲気。

これは写真を仕事にしていると、ごく当たり前のことでもあります。


カメラが記録しているのは、目の前にある物そのものではありません。

そこから届いた光です。


人の顔も、部屋も、木々も、服も、すべて光としてカメラに届き、一枚の像になります。


「イツモノヒカリ」という名前を考えたとき、僕の中には、この写真の仕組みがありました。


ただ、ここでいう「ヒカリ」は、窓から差し込む光や木漏れ日だけではありません。


僕たちは、人もまたひとつの「光」のようなものだと考えています。


もちろん、これは物理的な意味ではありません。


誰かがそこにいることで、別の誰かの表情が変わる。

子どもが母親を見る。

父親がそれを見ている。

声をかける。

近づく。

少し離れる。


そうした関係によって、写真の中に現れるものは絶えず変わります。


写真を撮るという行為は、ひとりの人を切り取ることのように見えて、

実際には、その人と周囲との関係まで写しているのだと思います。


だから僕にとって家族写真は、単なる人物写真ではありません。


そこにいる人たちが互いに影響し合った結果として生まれる、一時的な像です。


麦わら帽子の子どもが海辺で、青いチェック柄の母親の服に手を添えて立つ後ろ姿。夏の日差しの明るい浜辺。

同じ場所で、同じ人物を、同じカメラで撮ったとしても、まったく同じ写真にはなりません。


その日の気分も、距離も、関係も、光も違うからです。


写真には、その瞬間にしか成立しなかった条件が残ります。


僕はそこに、写真のおもしろさを感じています。


「イツモノヒカリ」の“いつもの”とは、平凡という意味ではありません。


むしろ、普段はあまり意識されないもののことです。


毎日顔を合わせている人。

見慣れた場所。

繰り返している会話。

気づかないうちに変わっていく関係。


そういうものほど、失われてから初めて輪郭が見えてくることがあります。


だから写真にしておく。


何かを特別にするためではなく、

すでにそこにあったものを、あとから見ることができるようにするために。


室内の模様入りカーペットの上を、裸足の幼児が歩いている様子。白いズボンと青緑の服が見える。

Photographが「光で描くもの」だとするなら、


イツモノヒカリで撮りたいのは、

その場所に差していた光だけではなく、

そこにいた人たちが互いに生み出していた光なのだと思います。


写真を見返したとき、写っている人物だけではなく、

「あの頃、自分たちはこんなふうに関わっていたのか」と気づくことがある。


僕は、そういう写真を残したいと思っています。


それが、「イツモノヒカリ」という名前の出発点です。


noteでのUtsushiの記事はこちら ↓



 
 
 

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