写真は、光で描くものだから。——「イツモノヒカリ」という名前に込めたこと

Photographという言葉は、光を意味する「photo」と、書く・描くことにつながる「graph」からできています。
写真とは、文字通り考えれば「光で描くもの」です。

これは写真を仕事にしていると、ごく当たり前のことでもあります。
カメラが記録しているのは、目の前にある物そのものではありません。
そこから届いた光です。
人の顔も、部屋も、木々も、服も、すべて光としてカメラに届き、一枚の像になります。
「イツモノヒカリ」という名前を考えたとき、僕の中には、この写真の仕組みがありました。
ただ、ここでいう「ヒカリ」は、窓から差し込む光や木漏れ日だけではありません。
僕たちは、人もまたひとつの「光」のようなものだと考えています。
もちろん、これは物理的な意味ではありません。
誰かがそこにいることで、別の誰かの表情が変わる。
子どもが母親を見る。
父親がそれを見ている。
声をかける。
近づく。
少し離れる。
そうした関係によって、写真の中に現れるものは絶えず変わります。
写真を撮るという行為は、ひとりの人を切り取ることのように見えて、
実際には、その人と周囲との関係まで写しているのだと思います。
だから僕にとって家族写真は、単なる人物写真ではありません。
そこにいる人たちが互いに影響し合った結果として生まれる、一時的な像です。

同じ場所で、同じ人物を、同じカメラで撮ったとしても、まったく同じ写真にはなりません。
その日の気分も、距離も、関係も、光も違うからです。
写真には、その瞬間にしか成立しなかった条件が残ります。
僕はそこに、写真のおもしろさを感じています。
「イツモノヒカリ」の“いつもの”とは、平凡という意味ではありません。
むしろ、普段はあまり意識されないもののことです。
毎日顔を合わせている人。
見慣れた場所。
繰り返している会話。
気づかないうちに変わっていく関係。
そういうものほど、失われてから初めて輪郭が見えてくることがあります。
だから写真にしておく。
何かを特別にするためではなく、
すでにそこにあったものを、あとから見ることができるようにするために。

Photographが「光で描くもの」だとするなら、
イツモノヒカリで撮りたいのは、
その場所に差していた光だけではなく、
そこにいた人たちが互いに生み出していた光なのだと思います。
写真を見返したとき、写っている人物だけではなく、
「あの頃、自分たちはこんなふうに関わっていたのか」と気づくことがある。
僕は、そういう写真を残したいと思っています。
それが、「イツモノヒカリ」という名前の出発点です。
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