写真は、誰のために残すのだろう。
- Utsushi/うつし(夫)

- 6月5日
- 読了時間: 2分
気づけば、毎日たくさんの写真が流れてきます。
朝、スマートフォンを開く。
誰かの旅行の景色。
美しく並んだ食卓。
記念日の家族写真。
少し前までは驚いていたような光景も、今では当たり前のように目の前を通り過ぎていきます。
写真はどんどん増えているのに、
なぜか忘れてしまう写真も増えている気がします。
そんなことを考えることがあります。
撮影の仕事をしていると、
「良い写真とは何だろう」
と聞かれることがあります。
きれいな写真。
おしゃれな写真。
印象に残る写真。
もちろん、それらも素敵です。
けれど家族写真について考えるとき、
少し違う答えが浮かびます。
数年前の写真を見返したとき、
私たちが本当に見ているのは何でしょう。
子どもの笑顔でしょうか。
それとも上手に撮れた構図でしょうか。
案外そうではありません。
写真の隅に写り込んだ古いソファだったり、
いつの間にか小さくなった服だったり、
もう使われなくなったおもちゃだったりします。
撮ったときには気にも留めなかったものが、
あとになって大切な記憶を運んできます。
だから写真は、
その瞬間を完成させるためのものではないのかもしれません。
むしろ未来の自分たちが、
その時間にもう一度出会うためのもの。
そんな気がしています。
私たちは撮影するとき、
特別な瞬間を作ろうとはあまり考えていません。
ただ、その家族の中に流れている時間を見つめています。
子どもが走る姿。
誰かを呼ぶ声。
窓から差し込む午後の光。
家族の何気ない距離感。
日常は過ぎてしまうと、とても早い。
だからこそ、
何でもない時間ほど残しておきたいと思うのです。
イツモノヒカリでは、
写真をアルバムではなく、一枚ずつのカードとしてお届けしています。
並べる順番は決まっていません。
飾る場所も決まっていません。
その時々の暮らしの中で、
手に取った人が自由に意味を見つけていけるように。
数年後。
十数年後。
同じ写真なのに、
見えてくるものはきっと変わっています。
子どもが成長し、
暮らしが変わり、
見る人自身も変わっていくからです。
写真は、見るたびに少しずつ意味を変えていく。
だから私たちは、
誰かに見せるためだけではなく、
未来の家族へ手渡すために写真を残しているのかもしれません。



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